(2015/7/26)憲法の選び直し論の行方(加藤典洋、橋爪大三郎、宮崎哲弥)
昨日の記事の続きである。
憲法の選び直し論のその後を分かる範囲で記載したい。
橋爪大三郎
まず、橋爪大三郎先生は2011年に宮崎哲弥さんの番組で以下のように述べた*1
橋爪「戦前も戦後も同じですけど、つまりね、日本人っていうのは自分で憲法の制定に関わった事が一回もないんです。戦前は、天皇を中心とする元勲たちが、勝手に作ってしまった。戦後は、ご承知のように、ごちゃごちゃしているうちに、アメリカと日本の政府の上層部が勝手に作ってしまった。で、主権ていうけども、全然、なんというか蚊帳の外ですよ。こういう状態では、憲法のことがよくわからないのは仕方がない。このために、是非一度、まったく同じ内容の憲法でもいいから、改正したらいいと思います。」
宮崎「選び直し論というやつですね。」
橋爪「選び直し論というか・・・ええまぁそうですね。改正手続きによって改正するんですよ。例えばですをであるにするでも、それだけだっていいんです。」
宮崎「内容は変わらないものを載せてもう一度日本国民によって信任されるかどうかというのは最終的には国民投票にかけられますから、その一種の国民的なセレモニーというかイニシエーションというかそういうことを行う必要があると。」
橋爪「それは非常に大きな教育効果があると思いますね。そこでね、憲法のどこが変わるかっていうと前文が変わります。前分は、大日本帝国憲法の改正として朕なになにとこう書いてあるんですけども。」
宮崎「ぜんぶんってまえぶんのことですね。ちょっと見てみましょうか。」橋爪「それがどうなるかっていうと・・・いや、この前文よりもっと前ですね。多分。それがこうなる『我々日本国民は憲法をさらに国民の間に定着させるためこのたび憲法を改正することにしました。内容はほとんど同じですけども、私たちを憲法とよりよい関係にするためにこの憲法改正を行うものです何月何日』と。」
宮崎「そういう宣言を載せるわけね。」
橋爪「そう。」
田添「なるほど、そうするとようやく国民の中でも、自分が主権をもっているというような主体であるということが・・・」
宮崎「あのね、この憲法っていうのは国民が国家に対して発するものですから、国民が当事者意識、自分たちが創った自分たちのモノだという意識を持っていないというのは本来的におかしい、というか巨大な矛盾を孕んでいるわけですよね?」
橋爪「ですよね。」
宮崎「そこを解消するために、とりあえず、いまの文言は同じなんだけども、いまの一文を冒頭に付けた、そういう改正を行うというご提案なんです。」
橋爪「それでも大変価値がある。もしその機会についでに中身が変えられるならA案B案C案ってやってね、改正をすればいいんですけども、やっぱり中身に関わるといろいろ議論百出だから。」
宮崎「とりあえずは自分たちのものにたぐり寄せるような試みをしなければいけない。」
橋爪「そういうことです。」
宮崎「それをしなければ、憲法が憲法として機能しないままで終わってしまうということですね。」
橋爪「はい。これはまぁ何千億円かかかるけれども、その結果ですね日本国がよくなれば、何兆円何十兆円の利益が我々に及ぶと思う。」
宮崎「うんなるほど。そういう議論というのは出てきてますか。」
橋爪「いや、私は前に言いましたがあんまり反響が・・・(笑)」
宮崎さんが、それは選び直し論ですね、と言ったあとで、選び直し論というか、まあそうですね、と言いよどんでいるのが少し可笑しい。内容的には加藤典洋さんのそれとほぼ同じで、前文が書き換わるという点が少し異なっている。
宮崎哲弥
さらに、この対談のホストである宮崎哲弥さんの立場はやや複雑で、当時、「民主原理主義考」というエッセイの中で「選び直し」論を取り上げ批判していた。
エッセイでは、現在日本に「民主原理主義」が瀰漫している例として憲法についてのアンケートを挙げる。この改憲理由に多くの人が「重要案件についての国民投票の実施」「首相公選制の導入」「情報公開原則の明文化」といった「民主的」な理由を挙げた上で、次のように指摘した。
また、全共闘世代の一部の評論家や学者たちによって「憲法の選び直し」なる珍奇な提案が盛んに唱えられ、年功序列で論壇の「重役」にのし上がった同じ世代に、喝采をもって迎えられた。
いずれの場合も、立憲主義的な近代国家としての公共主体性の正規化、整除化を目指しているという点では反国家的なわけではない。それどころか純化された国民国家主義の相貌が見え隠れしている。
この様は、J・F・ケネディの大統領就任演説の一節「国が諸君に対して何ができるかを問うな。諸君が国に対して何ができるかを自問せよ」という言葉に歓呼をもって応えたビートルズ・エイジの民主国家観を髣髴させる。
しかし、そのようにして造られた理想国家では、果たして抑圧や差別が生起しないだろうか。この社会は果たして「平和的」であろうか。
私はそうは思わない。理想的なデモクラシーによって統制された公共空間は、「夢のニュータウン」にも似た空虚さを湛えている。
当時の私は宮崎哲弥さんを尊敬していて、その人が卒業論文で取り上げたアイデアを批判しているのを読んでだいぶ気が動転して、どうしたものかとあれこれ考えていた。しかしいま見てもよくわからない批判である。エッセイを書いた時に、機嫌でも悪かったのか、と思った。
その後、上記の橋爪先生との対話でも肯定的に選び直し論を取り上げている。また、2013年にはニュース番組で憲法96条の改正の動きの解説でこう述べている*2
宮崎哲弥
「行われてないでしょ。67年間行われてない。つまり、厳密に言うならば、今のこの立憲主義の考え方で言うなら、この憲法は、国民の承認を経ていないと」宮崎哲弥
「言っても過言ではない。ならば、この、今回に、この形で、つまり、政府は改憲案を、69条(注:96条)に関して改憲案を出す。それに対して、それが承認されるかどうか。これ、否決された場合にはね、国民投票で否決されても、それはそれで、現行憲法が選ばれたと考えればいいわけです。で、改正案が承認された場合には、その改正案が選ばれたというふうに考える。いずれにしても国民のね、憲法に対する意志というのが、この国民投票によって初めて、実現すると。こういうようなことを考えてみると、私は96条改正案というのは、あり得るべしだと思います」
これは、憲法改正の国民投票が行われたとき、結果が賛成でも反対でも、国民が自らの意志で憲法を選んだとみなすという意味で、もう一つの選び直し論と解釈して差し支えないのではないかと思う。
*1:書き起こしは次のブログを使用させていただきました。
宮崎哲弥のトーキング・ヘッズ「憲法って何?」2011年5月20日放送|若武者のブログ
*2:書き起こしは次のブログを使用させていただきました。
(2015/7/25)鶴見俊輔さん(と加藤典洋『敗戦後論』)
鶴見俊輔さんが亡くなった。そういえば私が書いた卒業論文に鶴見俊輔さんの文章を引用していたのと思い、久しぶりにざっと読み返してみた。文章では色々なことを言いたかった私が、色々なことを述べていたが、言いたいことの一つが、加藤典洋さんの『敗戦後論』は鶴見俊輔さんと強いつながりがある、ということである。それは二人の関係を考えれば当たり前であるが、あまり言及されてないように思う。『敗戦後論』は、その当時だいぶ話題になり、最近ちくま学芸文庫で再刊されているようだ。
鶴見俊輔さんの「かるたの話」という論文の中に、憲法に言及したものがある。これは、小熊英二さんの本で読んで知った。
戦争が終わって、……新しく、平和憲法という嘘が公布された。これはアメリカに強制されて、日本人が自由意志でつくったように見せかけたもので、まぎれもなく嘘である。発布当事嘘だったと同じく、今も嘘である。しかし、この嘘から誠を出したいという運動を、私たちは支持する。それは、嘘から誠を出し得るという前提に立っている。
日本国憲法は嘘である、というのはなかなか強烈な指摘であるが、さらに嘘から誠を出しうるという護憲論は、アクロバティックでもあり、護憲派にも受け入れられづらいのではないかとも思う。しかし後年、加藤典洋さんの『敗戦後論』の中に以下の一節があり、その論理の継承が見られる。
わたし達のこの平和憲法保持は、この「強制」の事実に眼をつむることによって完遂された。わたし達はこれを擁護し、また否定しようとしてきたが、そのいずれも現実を直視したものではなかった。現実はどうだったか。わたし達は「強制」された。しかし、わたし達は根こそぎ一度、説得され、このほうがいい、と思ったのである。 とすれば方法は一つしかない。強制されたものを、いま、自発的に、もう一度、「選び直す」、というのがその方法である。
これが名高い憲法の選び直し論であり、経済学部だった私が思わず卒業論文に取り上げてしまったきっかけの文章であった。
鶴見俊輔さんはその後こんなことを言っている。
私は憲法を一度国民投票みたいなものにかけ、国民一人一人 の意志決定に委ねることが必要だと思う。……加藤典洋さんの発言にあったこの着眼点から私は目を開かれました(「改憲論を排す 条文と約束」(『情況』第 2 期 4 巻 9 号)、pp.91-103)
つまり、鶴見俊輔の「嘘から出た誠」という憲法論は、加藤典洋の「憲法の選び直し論」に結実し、それを再度鶴見俊輔が支持した、という図式である。
同書のなかで加藤典洋さんは「きみは悪から善をつくるべきだ/それ以外に方法がないのだから」という言葉を引いている。悪から善を作るのも、嘘から出た誠も、論理展開としては同型である。アクロバティックではある。この言葉に着目する理由として、自分が警察官の子供でありつつ全共闘運動を迎えたという経験から「自分がものごとを考えるに際して、すべてをもう一度、自分なりに考え、再構成しなくてはならなかった」ので、こうした「ひねくれ」た言葉に眼がいくのだと説明している。
なお、その後、憲法改正のための国民投票制度を定めた国民投票法が施行された。
追記:以下の記事を書いた。
(2015/7/23)uncopyrightとミニマリストの考え方
この記事について
以下は、leo babauraの記事の翻訳です。
» uncopyright and the minimalist mindset :mnmlist
著作権については、以下の記事と同様に、uncopyrightです。
uncopyrightとミニマリストの考え方
皆さん知っているかもしれませんが、私は著作権という概念が好きではありません。実際、私はこのブログや他のブログであるZen Habitsをuncopyrightという位置づけにしています。
そしてuncopyrightとミニマリズムの二つの概念は一見関係ないように見えますが、これらは同じ考え方から生まれると信じています。
以下にその仕組みを説明します。
著作権は防御的な考え方から生まれます。つまり、著作者は作品を所有し、その作品から生まれる利益を得るために所有権を守らなければいけない、ということです。著作者は作品を他の人とシェアするが、それは代金を払ってシェアしているに過ぎず、支払わずに使用する人や、更なる創造の基礎として使う人は著作物を盗んでいる。
これが、著作権の考え方です。
uncopyrightのマインドセットは、利益に関してどんな補償も必要とせずに著作物を与え、所有権を放棄し世界自体がその著作物を所有していると信じている人の考え方です。そうした人は、世界に少しずつ貢献することを望み、もし他の人がこうした貢献から利益を得るのであればそれは良いことであると考えます。さらにもし他の人がこれを使って何か新しくて美しいことを創造するのであればそれはワンダフルなことであると考えます。
uncopyrightのクリエイターは所有権を放棄します。というのも、所有権にしがみつくことは世界を傷つけ、所有権を擁護することは不必要なストレスを生み出すからです。
ミニマリストも同様に、所有権を、少なくともある程度は、避けます。また何かを所有することは自分をハッピーにしないと信じます。モノを所有するのではなく何かをすることが自分を幸せにする。他の人を助けることが自分を幸せにする。創造することが自分を幸せにする。
こうした状況の元、ミニマリストはuncopyrightを採用します。そうすることで世界に与え、ほんのすこしであるが世界をよりよくすると期待するのです。
(2015/7/22)leo babautaさんのブロクの翻訳
ミニマリストに関する世界の議論を眺めていて、そういえば自分は、Leo babautaさんのmnmlistというブログが好きだったことを思い出した。
すでに更新は終了している。
このブログは翻訳してくださっている方がいる。
しかし、すべての記事を手がけているわけではないようだ。
英語の勉強もかねてそれ以外の記事を翻訳しようかしらと思った。
(2015/7/21)英検とCEFRの関係について
ここ一年、英検を受験している。結果は不合格で、一次試験から抜け出せない。
とくに14年の第3回はあと二点と言うところだった。衝撃のあまり物欲が亢進し、思わずiPadを買ってしまった、笑い。
直近の結果はこちら:
この会は、特にリーディングの語彙問題以外のパートが、ほぼほぼ満点だった。それでもなお不合格というところに闇を抱えているわけだが、なかなかのものだと思った。
なお、この会から、英検CSEなるものが導入されている。
CEFRとの対応を提供する概念のようだ。CEFRも最近目にすることが多くなってきている。これによると、英検1級に合格するということは、C1以上、つまり「熟練した言語使用者」ということのようだ。なかなか厳しいものがある。
自分の体感的には、準一級と一級の間にかなり差があるのだが。
第二回は所用により不参加。第3回こそは合格したい。