(2015/8/11)『戦後論』という本を読んだ
『敗戦後論』を扱った本として加藤さん自身が言及していることもあり、次の本を借りてきて斜め読みした:
斜め読みといっても、結論部だけ読んだ程度であるが、ぞくっとするフレーズが光る。
人は、医者となることで、病気から免れるわけではない。そしてもちろん、医者よりも患者の方が「当事者」として生きているのである。
(略)
「当事者」としてあることは、「責任」をもつ者よりも先立ってあるが、また、後まで残るのである。
「加藤典洋」の名前が一度も出ない結論部を読む限り、『敗戦後論』は話のきっかけに過ぎないのだなと感じた。憲法の選び直し論のその後を追う意味ではあまり意味がない本ではあるが、読む価値がありそうな本である。
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その後、同じ筆者の書いた新刊への、否定的なレビューが一部で話題になっているのを読んだ。
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その後、さらにしばらくたって、本の真ん中の部分、『敗戦後論』の批判を取り上げた部分は読まずに戦後の知識人の戦争への態度を仕分けていくあたりを読んだ。この本を読んだ頃は、というのは今まさになのだが、本書のキーワードである「当事者」ということが、私の生活に必要であると自覚された頃だったので、興味深く読んだ、ということなのだろう。それは、妻からは育児に関してもっと関与を求められたという情けなくも申し訳ない話でもあり、仕事に関してもいろいろと思うところがある昨今と言う状況でもある。
とはいえ本書は、戦争の当事者として戦後評論活動を行ったもののうち、たとえば大岡昇平、あるいは吉田満、注には山本七平の名前もあり、筆者の言う当事者性の薄い言論として、丸山眞男や鶴見俊輔、家永三郎のそれを挙げていて、その違いは戦争への関与が負けたチームながらレギュラーとして戦った前者と、補欠として戦った後者の違いに求めていて、それは、ただそれだけなのではないか、と感じた。
この辺りは、だいぶビジネスに毒されている部分があるのかもしれない。読んでいながら、パワポで数枚にまとめてくれれば十分なのに、と思わないでもなかったことがなんどもあった。筆者の師匠の加藤典洋のように、まだ文章のうねうねとした藝のようなものがあればよいのだけれど、まあ修士論文をうねうねと書かれても閉口するかもしれないが、きつい部分もいなめなかった。それで、当事者性があればこんなメリットが有る、とか、ないのでこんなデメリットがあった、とか、そういう話ではなかった。
つまり、筆者が研究を進めながら自分の考えを育て上げていった成長感覚を追体験できるわけでもなく、あらかじめ決められた枠組みのなかに既存の言説を分類しました、という感じであった。それはどうなんだろうかと思う。ところで筆者に興味を持って、アマゾンなどで著書やその評判を確認していくと、大菩薩峠についての本があり、こうした評があった:
何というか、テーマへのアプローチの仕方がネガティブなもののように思います。
この本はつまらないという前提から始まって、何故つまらないのか → 連載当時の文を読んでみたら面白かった → よって単行本がつまらないのは介山の編集がまずいからだ……という結論に達しているわけですが、これは狭量に過ぎるように思います。
Amazon.co.jp: 「大菩薩峠」を都新聞で読むの __ __さんのレビュー
本は違えど、おんなじような印象を持った。つまり、結論ありきでロジックを展開させる資料を読んだときの嫌悪感。
とはいえ、当事者、というのは誰にとっても切実な問題であろうことは間違えなく、それを第二次世界大戦への関与の仕方を例にとって論じる、というのは、しかし、なかなか難しいことではある。私は私の当事者たるべき分野を当事者としてことをあたる、という、そうした決意を、もしかしたらネガティブな印象が強かったかもしれない読書から抱いた。
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以下、鶴見俊輔の死去に伴う次のような記事を書いた。