(2015/8/9)『さようなら、ゴジラたち』という本を読んだ

久々に加藤典洋さんの本を読んだ。

さようなら、ゴジラたち――戦後から遠く離れて

さようなら、ゴジラたち――戦後から遠く離れて

 

 といっても5年前の本、読みたかった論文「戦後から遠く離れて」は『論座』の2007年月6号だからかなり以前のもの、第一次安倍政権のころのものである。憲法の選び直し論のヴァリエーションを以前記述した。 

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その後加藤さん自身が書いていることを発見して読んだわけだが、加藤さんの文章を読むのは学生時代ぶり(!)だが、その論旨のうねうねとするところがやはりいい。そのおかげで論旨を読み取った自信がないという副作用があるが、文章を読む楽しみがある。

とはいえやはり、その選び直し論がどのように更新されるのか、はたまた破棄されるのかと言う点について、いろいろと迂回しながら、結局は選び直し論を選ぶ、という結論であって多少ずっこけるところもある。では前回の選び直し論とはどう違うのかということであるが、そもそも『敗戦後論』の選び直し論も具体的には何を行うのかということについては、明確な言明はなかったように思う。今回のそれも、やはり具体的な言明はなかったように思う。なんだかよくわからない感じではある。前回の選び直し論について次のように評価している:

しかし、いまの目から見れば、この処方は、「よごれ」と「ねじれ」を受けとめ、これを「生きる」仕方としては、やや、不徹底だったのではないだろうか。筆者は、「恥の多い生涯を送って来た」憲法の生態、いわば「生きざま」からも、「恥の多い」ねじれた生涯を生きるというのが、どういうことか、学ぶべきだったのである。その意味では、方向こそ逆向きではあれ、『敗戦後論』での筆者の言い分には、まだ、現在の安倍晋三氏の主張に通じる、「一本木」なところがあったと言わなければならない。

 憲法を選び直すことは、ねじれ、ねじれというのは平和憲法を武力を背景に押し付けられた制定過程の経緯を指しているわけだが、このねじれを解消することであるが、これは、一本木である、と。一本木で何が悪いのかという気がしないでもないが、これを受けた今回のアップデート版での選び直し論はなにを意味するのかと言うと、「理念と現実の落差をそのまま、持ち越す現状維持」という選択になる。

選び直すという能動的な行為が意味するものが現状維持という状態を示しているというのは、大変わかりづらいが、そういうことである。この論が参照している内田樹さんの文章で言い換えると、

日本人が今まず行うべきことは、「問題の先送り」という疾病利得を得ることの代償に、憲法九条自衛隊の無矛盾的並立を矛盾として苦しみ、それでもなお生きながらえてきたという動かしがたい事実を世界に告げることだと私は思うのである。(「憲法がこのままで何か問題でも?」)

 となる。「世界に告げる」とはまた抽象的な、とは思う。

加藤さんいわく、「戦後憲法を支えてきたのは、他国が攻めてきたらやはり怖い、しかし他国を攻めることようなことはもう、したくない、というふつう一般の世間の人々の願い」であるという。この、後者を支えているのが憲法であり、前者を支えているのが自衛隊日米安保体制ということになり、理念と現実にギャップがありさらにまたこのギャップ自体が悪くないという構造が、恥の多い生涯を送ってきた憲法、ということになる。だから、憲法を正とすることも自衛隊と安保体制を正とすることでもなく、現状維持、が世間一般のひとの願いを実現する選択肢という結論となっている。

論の中に、吉本隆明の言葉が引用されている。

いざ戦争に負けてみると、正義と信じた戦争はあまりに愚劣なものであったことを、骨身に染みて知りました。そのとき、憲法九条が差し出された。僕らは戦争を心から恥じ、悔いましたが、これで戦争のモトが取れたのだ、と考えてかろうじて自分を慰めてきたのです。(『わが「転向」』)

加藤さんいわく、憲法はここでは理念という概念であって、必ずしも現実に着地すべきものとは考えられていないという。このあたりの考え方には違和感があり、憲法は理念ではなくて法律であって、いつまでも法律と現実が合致しないのは法律の存在価値を毀損するものであると思う。とはいえ、憲法をそのような理念の表明と考える方々の存在、というのは、確かにあったのだろうということについて、少し想像が及びづらくなっているところでもある。戦後70年というのは、憲法をそのような理念と捉える方々がそろそろいらっしゃらなくなっている時期とも言える。